土屋マリローさん(土屋真理さん)
2020年10月06日
1994年、本誌取材に「私はフィリピン人で9年前に主人と結婚して日本に来ました。初めて経験する冬の寒さに驚き、日本語も分からず何度もフィリピンに帰りたいと思いました。でも徐々に日本人の親切さ、素直さや丁寧さ、他にもいろいろなことが分かってきました。」こう語って下さったマリローさんを26年ぶりに再取材をし、その後の人生や、周りの変化などをお話していただきました。当時も今も県大でフィリピン語の講師を勤めています。1歳の赤ちゃんだった息子さんも、もう立派な社会人です。
2003年、日本に帰化しました
フィリピンでは教師というものは人一倍愛国心を持っていないといけません。フィリピンでは大学の講師をしていましたので、ずっと強い愛国心を持ち続けていました。その為、結婚して子供ができてからも、なかなか日本国籍に変えることに踏み切れませんでした。でも日本に長年暮らすうちに、日本の歴史、文化すべての芯の部分や日本人の心が自分の中にしみ込んできました。日本に溶け込めたような感覚が持てたので、帰化する決心がつきました。名前を「マリロー」から「真理」に変えました。
日本に長く住んでみて
夫は海外の仕事が多くてあまり自宅にいなくて寂しかったですが、周りの人がそれを埋めてくれました。私は「日本の方に見守られてきた」ように感じています。周りの日本人は、高等教育を受けていても、とても謙虚な方ばかりでした。隣近所の人、学生、英会話の生徒さんたち皆さんが、時には子供を見ていてくれたり、引っ越しを手伝ってくれたりいろいろ親切にしてくれました。今は一人暮らしですが、県大の講師の他、瀬名老人福祉センター、南部公民館で年配の方たちに英会話を教えています。そこでは英会話だけでなく日本の文化、考え方、生活情報を教えてもらいながら心を通わせることで、以前のような寂しさはありません。
前回の取材の翌年から、毎年、夏休みに希望する学生を引率してフィリピンへスタディツァーに行っています。私の親族やフィリピンにいた頃の教え子たちが受入れてくれて、いろいろ面倒をみてくれます。私が結婚する頃は、フィリピンでの日本人の印象は「日本人は残酷だ!やくざが多い」と余りよくないものでした。私達の結婚で親や親戚の人たちが抱いていた悪いイメージが変わったようです。実際に人と人とが触れ合って理解し合うことの大切さを感じました。日本の学生とフィリピンの人たちとの交流の中から、少しでも互いによい印象を持って友情を育てて欲しいという気持ちです。
以前は「日本人はなんて冷たいの!」と思うことが度々ありました。知り合いも少なく、あまり話さなかった頃です。でも徐々に日本人は、本当は遠慮しているのだと気付くようになりました。プライバシーを守っていて冷たいのではないと。
専業主婦への考えも変わりました。私は専業主婦よりもキャリアウーマンの生き方のほうが良いという考え方を持っていましたので、最初の頃は「何で日本人の女性は外で働かないのか?」と思っていました。けれど、日本に長く住んでみて、専業主婦は子供たちにしっかり家庭教育をして大学まで行かせ、社会人として成功するように懸命に育てていることが分かってきました。その息子や娘が担う今の日本の強さは一部には専業主婦のおかげでもあると思っています。今では専業主婦を尊敬しています。悪くないなと。
息子にはあえてバイリンガルに育てないという方針を取りました
フィリピンのマイナス点は、英語が強くて母国語のフィリピン語が弱く、そのことが貧富の激しい差を生み出す一つの要因になっていると思います。バイリンガルは難しいですよ。バイリンガルにすると日本語と英語が混ざり、フィリピンの社会のように母国語が弱くなる可能性があります。息子には自分の母国語でしっかりとした言葉の土台を作ってほしく、日本語に強くなることが大切と考えて、日本語を学ぶことに集中させました。フィリピンとは違って日本では、日本語だけでも専門知識が得られ、良い就職をすることができると考えました。
日本にお墓を買いました
日本を深く知れば知るほど、尊敬の気持が深くなりました。全国的に豊かで、フィリピンのような貧富の差が余りありません。思いやりがあり、一生懸命に働く日本人の心が大好きです。以前はフィリピンと日本のどちらに骨をうずめるか半々の気持でしたが、今は80~90%日本です。静岡にお墓も買いました。
記:編集ボランティア 川島 康子