セネガル出身の二ヤング・ムサさん

2017年06月30日

セネガルとニヤング・ムサさんの紹介

アフリカ大陸の西岸にあるセネガルは、1960年にフランスより独立しました。人口約1500万人、イスラム教が95%、公用語はフランス語を使用しています。首都ダカールはパリ・ダカールラリーの終点として有名ですが、街の沖合にはかつての奴隷貿易の拠点であったゴレ島があり悲しい歴史を持つ世界遺産として登録されています。
ダカール出身の二ヤング・ムサさんは、身長2メートル、端正な顔立ちにまっすぐな視線で、魅力的な笑顔を浮かべながらインタビューに答えてくださいました。スポーツ万能で、特に水泳では国内では広く知られた選手だったそうです。サーフィンを通じて知り合った日本の女性と結婚して、現在浜松市でエクステリアの仕事(外構工事、庭、駐車場のデザインなど)をしています。

日本に来たきっかけ

2005年の愛知万博にセネガルの代表として、パビリオン内で自国の楽器を中心に文化の紹介をするために来日しました。ダカールではヨーロッパからの観光客のツアーガイドをしていましたが、自国の詳しい知識と、ガイドとしての高い評判が政府の耳に届き、日本に行ってほしいと声がかかったのです。万博後、サーフィンの良い波を求めてサーファーの間では有名な浜松市の五島ポイントに来たところ、海も、人も、波もとても気に入ったので住むことに決めました。

ニヤングさんから見たセネガル

セネガルでは日本のことはほとんど知られていなく、まだ刀やちょんまげの世界だと思っています。
セネガルは思いやりの文化とずるさが混在する社会だと思います。人と人との助け合いが強く、知らない人でも合えば必ず挨拶をかわします。人への思いが強いだけに喧嘩は殴り合うほど、とことんやります。一方仕事に対しては文句といい加減さが目に付き、易きに流れずるくなりがちです。
小さい頃から社会の弱い部分と強い部分に触れて社会を見る目が養われ、問題意識を持つようになりました。12歳の時、水問題に関心を持ちパイナップルの空き缶を利用して海水から飲み水を作る方法の実験をしていました。15歳の時には水や電気、生活必需品に事欠く田舎に、服やろうそく等不足しているものを持って行って配りました。本当に物のない地区でしたが厳しい状況下で暮らす人々に逆にパワーをもらったことを憶えています。

日本での暮らしや日本で働くことについて

若い人が親方や先輩に対して尊敬の態度を示さなかったり、親方の言い方、やり方が気に入らないと、すぐやめてしまうことがありますが、一般に日本人は、時間を守ってまじめに長時間働き、しっかり休みを取ってプライベートと仕事のバランスが良く取れている印象を受けます。私は厳しい親方に育て上げられました。職人としての熱意を示し、外溝の勉強が十分してあることを実践で示していくと、周りは、セネガル人ということよりも、人は人、仕事は仕事として認めてくれるようになりました。
日本の人には、アフリカを知り黒人を良く知ってほしいと思います。ある晩アパートに住む友人の部屋を間違えると、ドアを開けた女性がギャーッ!という大きな悲鳴を上げました。暗闇に目と白い歯だけが浮かんだ黒人を見て、ものすごい恐怖感が湧いたらしいのです。隣の友人が訳を説明して謝罪しているのに、警察が呼ばれて大騒ぎになりました。日本人は黒人に慣れていないし黒人のことを良く知らないなと痛感しました。

将来について

技術をさらに向上させオリジナルデザインを開発し、独立して会社を立ち上げたいと思っています。日本で成功させてから、セネガルにその技術や日本の機械を紹介したい。同時に若い人をきちんと鍛え上げ、汗を流して、給料をもらってしっかりとした生活を送り、ずるいことはしないという職業観も身に付けさせたいですね。

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