Dr. Mohammad Shah Alam(シャー・アラム・モハッモド)さん (バングラデシュ出身)

2022年10月01日

日本とバングラデシュの架け橋に

三島市にある日本大学国際関係学部で教員として勤務しているバングラデシュ出身のシャー・アラム・モハッモドさんに、日本へ来ることになった経緯や、知っているようであまり知らないバングラデシュのことなど、お話を伺いました。

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19歳で日本へ留学

バングラデシュの首都ダッカから東へ100キロほどのクミッラ県出身のシャーさんは、19歳の時留学生として来日しました。クミッラの小学校(5年制)でテキストに載っていた「広島、長崎」のことがシャーさんと日本とのつながりの原点です。卒業後、ダッカの中学校(5年制)、高校(2年制)で寮生活。当初は医者志望でした。また、海外留学も希望していましたので、高校卒業時にちょうど留学生を募集していた東京の言語研修機関に応募し、合格することができました。アメリカの学校の留学生試験も合格しましたが、シャーさんは自らがアジア人だという意識が強く、日本への留学を決めました。

日本にはチョンマゲのサムライがいない!

初めて成田空港に降り立ったとき、一番びっくりしたのが、日本にはチョンマゲのサムライがひとりもいないということでした。みんな普通の髪型で普通の服装です。ダッカで日本の映画をよく見ていましたが、それが時代劇ばかりだったので、日本はチョンマゲの国だと思い込んでいました。100%認識違いでした。
来日当時は、日本語は全くわからず、勉強はすごく大変でしたけれども、普段の生活では、英語ができるのでさほど困ることはありませんでした。バングラデシュは、公用語がベンガル語。普段の会話もベンガル語ですが、ビジネスの世界では英語が使われます。人々は小さい頃から英語を学び、使う機会も多いので、皆英語が堪能です。1年半の日本語研修を終え、コンピューター関連の勉強をしばらくした後、日本大学国際関係学部に入学し、三島市に引っ越してきました。卒業後いったん東京にもどり修士課程を終え、その後再び国際関係学部で博士課程を修了し、2013年に講師となって現在に至ります。

バングラデシュってどんな国

バングラデシュの国土は日本の40%ほどですが、人口は約1億6000万人と、日本の1.3倍の多さです。気候は熱帯モンスーン気候で大きく雨季(4月~9月)と乾季(10月~3月)にわかれます。 主要産業は農業ですが、近年では縫製産業が盛んになっており、アパレル輸出国として急速に経済成長を遂げています。
現在のインド、パキスタン、バングラデシュは、かつてはイギリス領のインドとして1つの国でした。1947年に、ヒンドゥー教を主体とするインドから、イスラム教のパキスタン(インドを挟んで東西パキスタン)が分離。その後言語が異なることや経済的理由により、東パキスタンを占めるベンガル人がパキスタンからの独立を宣言。独立戦争を経て1971年に「ベンガル人の国」バングラデシュ人民共和国が誕生しました。 

和食が大好きです

普段のバングラデシュの人々の食事は主にお米です。豆や魚、鶏肉などのカレーを付け合わせて食べるのが毎日の習慣です。国民の90%がイスラム教ですので、豚肉や豚由来のもの、それにお酒は口にしません。来日してしばらくして友人から「試してみて」と言われ、こわごわ口に運んだマグロの刺身が、ものすごく美味しくて感激しました。それ以来、刺身、鮨はもちろん納豆でもうなぎでも、和食はどれも美味しくて大好きです。今では、日々、和食中心の食生活で、バングラデシュに帰ったときなどに食べる料理が逆に重く感じられてしまいます。

日本とバングラデシュの架け橋に

将来に向け、可能なら日本での永住権を取得したいと思っています。そして日本及び国際社会に恩返しがしたい。両国の国レベルでの交流の促進のみならず、人と人との親交がより深まるようになってほしいし、その架け橋みたいなことができたらいいなと考えています。そのためにも、日本の皆さんにバングラデシュのことをもっと知ってもらいたいと思っています。

日本語ペラペラで、ひらかな、カタカナはもちろん、漢字も自在に扱うシャーさんとお話をしていて、バングラデシュがものすごく身近に思えるようになりました。ドンノバード(ベンガル語で“ありがとう”)
記:編集ボランティア 金子 諭