皆さんこんにちは!銀行で働いています。

2021年10月01日

 

今日は、13歳の時来日し、日本語と格闘しながら、中学、高校、大学と進学し、現在スルガ銀行で外国為替関連のお仕事をしている藤田ジュリエッタさんのインタビュー記事です。
コロナ禍のため、お勤め先のご協力をいただき、ネット会議システムを利用したインタビューとなりました。「来日してから経験したこと、嬉しかったことや辛かったことなど、何でもいいから聞かせてください」とお願いしたところ、当時を思い起こしながら静かに話してくれました。
ジュリエッタさんはアルゼンチン・ブエノスアイレスの出身です。「日本に来ることなど考えていなくて、のんびりと暮らしていた」そうですが、13歳の時、お母さんと弟と共に来日し、日本で働いていたお父さんと一緒に暮らすことになります。

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(来日した時、日本語や日本での生活のことは、わかっていたのですか?)

「お父さんが日本人ですから日本語は多少耳にはしていましたが、話すことはできませんでした。また、日本の情報はまるでなく、どのような生活になるのか分からず、とても不安でした。私は長泉中学校に通うことになったのですが、その当時は今とは違い、学校にも住んでいる家の周りにも外国人はいなくて、とても心細かったことを覚えています。」

(中学校ではソフトボール部に入ったのですね?学校の部活動には馴染みましたか?)

「同じクラスの子がソフトボール部員だったことがきっかけで入部しました。入部して色んな規則やルールが多いのには驚きましたが、部員は、規則やルールを守ると感じたし、秩序を乱さないようにしていると思いました。
チームはそんなに強くはなかったのですが、部活動を通して友人、学校そして日本の理解を深められたと今では思っています。」

(日本語の勉強はどうでしたか?今のように上手に話し、読み書きもできるようになった方法は?)

「学校の規則やルールを覚え、馴染むことも難しかったのですが、日本語を覚えることがさらに大変でした。母が大変厳しい人で、泣きながら日本語の勉強に取り組んだこともあります。でも、母が一番苦労していましたね。日本語が分からないのに保育園のボランティア活動等に積極的にかかわり、周囲の人たちから日本語を直に学びました。母が踏ん張っていたから、私や弟も頑張ることができたと思います。もっとも、弟は子供らしく、苦労もなく日本の生活に溶け込みましたが。
日本語能力は中学の3年間で一気に伸びたと思います。今のようにパソコンや携帯電話の無い時代でしたから、辞書を常に持ち歩き、単語やフレーズを繰り返し呟き、その響きを覚えるようにして身につけました。外国人にとって漢字を学ぶのは大変なのですが、『辞書を常に持ち歩きなさい。分からない単語は必ずページをめくって調べなさい』という高校の時の先生の指導を守り、漢字に馴染んだと思います。

日本語と格闘した中学、高校は決して楽な経験ではなかったのですが、友人や学校、部活の先生、高校の先生がいろんな形で面倒を見てくれて、支援してくれました。人に恵まれ、出会いに恵まれた中学、高校時代だったと思います。」とインタビューを締めくくってくれました。

いま、ジュリエッタさん家族は、旦那さん、お子さん2人の4人家族です。家では日本語とスペイン語を話すようにしているそうです。バイリンガル家族がまた増えました。

記:編集ボランティア 杉山滋敏