萬寿・メーダ・カツリラタナさん ~静岡に21年暮らし続けて~

2018年05月24日

スリランカ出身のマンジュさん

静岡県内で働く外国人たちは、様々な方面で私たちの暮らしを支えています。マンジュ・メーダさんは、日本語検定1級獲得後、永住権を取り、会社を立ち上げてビデオ撮影・編集を中心とする仕事をしています。
外国人が、生活情報を入手・発信する方法が確立されていない中、マンジュさんは外国人の目線で、多様な社会経験を活かし、多言語による生活情報を流す映像を作り上げています。日本人の作品とは一味違う、日本人にも外国人にも分かり易い作品となっています。忙しい傍ら、自国の紹介を目的にスリランカ料理のレストランも経営しています。日本人の奥さんと共にインタビューに答えてくださいました。

どうして日本に住むようになったのですか?

スリランカ人は皆日本が好きです。戦争に負けても、アジアで最初に先進国となった国として、尊敬の気持ちを抱いています。戦後の国連でスリランカ大統領が、「敗戦国日本に対しては、憎しみや賠償金よりも平和を!」という大変感動的な演説をし、それが日本が勝戦国による4分割を免れるきっかけとなりました。以来、スリランカと日本は友好関係を深めてきています。そんな中、私もまた興味を持って日本語を学んでいました。
1997年来日、4月から静岡インターナショナルスクールで2年日本語を学んでから、県立大学で国際関係論を勉強しました。国際取引法、著作権に関することを卒論にまとめました。卒業後、静岡で就職しましたが、2004年12月スマトラ島沖地震津波が起こり、現地に募金を送る活動をした時に、情報を流すことの重要性に興味を持ち、再び大学に戻って、マスコミ、メディア関係を研究しました。卒業を前に、大学に残るか企業するか迷っていたところ、前々から私の活動を見てくれていた先生が、会社設立の方向へと背中を押してくれました。それで2007年に株式会社マンジュ・コーポレーションを作ったのです。

株式会社マンジュ・コーポレーションについて

車関係の仕事、パソコンを修理して売る仕事、ホームページの作成、映像作成と、とにかく物凄くがんばって働きました。最初の一年はよかったのですが、2008年のリーマンショックで車関係の仕事が激減してしまったので、景気の回復を期待しつつ撮影、パソコンに重点を移していきました。2013年静岡市の国際交流会から、外国人向けに多言語で市のニュースをユーチューブで流す映像作成の仕事が入りました。妻ともそこで知り合ったのです。そのうちに、歯科医師から子供用の矯正用動画編集を頼まれ、それを機に、医療関連の仕事をするようになりました。そして今回、県国際交流協会が、静岡済生会病院と磐田市立病院と協力して、外国人患者のための多言語による入院生活などのビデオ作りをすることになり、私がビデオ撮影・編集を担当しました。
多言語でのビデオ作りでは、県協会も病院も前例が無かったので難しい面がありましたが、アイデアを出し合って作成していく過程でノウハウが見えてきました。ちょうどタイミングよく、ソーシャルワーカーつきの友達が入院してきたので、その人の実体験に沿って作っていきました。どんな工夫をすれば外国人に分かってもらえるかを考える時は、いつでも自分がユーザーだと思って、ポイントを探ります。最近は病院も医師も頼りにしてくれて、仕事の紹介をしてくれます。医療用のビデオを作ったり、子供矯正で使う動画ソフトの為にシステムの提案をする仕事が全国的に展開できつつあります。

日本に住み、働くことで気を使っていることはありますか?

現在、自分から仕事を取りに行くというより、誰かの紹介というのが多いですが、自分は自分らしくしているという姿勢でいます。生活の場では、同じ外国人の立場でも白人との差別を感じることがあります。本当によく警官に職務質問されますから。白人はほとんどされないようです!でも日本人の中で仕事をしていく上では”壁”はありません。

日本の印象はどうですか?

バブルから必死に頑張って来て、今は欲望がなくなりつつあり、これからはのんびりやっていく感じがします。欲望のかなった経済状態だと目に映ります。日本は”すぐ結果を求められる文化”ですが、短期間で結果を出せというのは弊害であり、日本の技術が死んでしまうのではないでしょうか。しかも、今までの技術を海外に持って行かれてしまっています。日本では外国人でも自由に土地や建物を買える事がとてもいい事と思っていますが、自由過ぎてこれからの日本を考える時に問題ないのかと気になります。スリランカでは、現地の人と一緒でないと買えません。

最後に、将来は、スリランカの自然の動植物を是非撮影したいですね。

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