ネパールと伊藤克彦さん

2017年09月29日

単身ネパールへ

JICAの日本青年海外協力隊が発足したのは、1965年。それからほどない、1974年伊藤克彦さんは、かねてから興味を持っていたネパールに単身身を投じました。

Q:現地、ネパールのカトマンズでの生活はどんなようすでしたか?
A:ことばが自由でないことから、まずことばを猛烈に勉強しました。
仕事は、首都カトマンズにある繊維会社。 工場のなかに、故障でさびつき、動かない紡績機械が100台ほど、ころがっていました。外国から導入した機械でした。幸い、繊維機械は私の専門領域でしたので、ことばのハンディはあまり感じずに、調査することができました。
約半年後、機械のメカニズムを解析し、その扱い方を現地技術者に伝えながら解明していきました。

Q:現地の人たちから信頼を得ると仕事も軌道に乗っていったということですね。
A:そうです。 信頼を徐々に得てくると、コミュニケーションが増え、わたしのネパール語も上達するという好循環がうまれ、工場も軌道に乗りました。
どこから伝え聞いたのかネパールの外務省や国連の職員から、こんな相談が持ち込まれました。
ネパールでは日本との交易をもっと進めたい。 ネパールからは、民芸品を日本の皆様に紹介したいので力をかしてくれないかと。

Q:とはいっても、一協力隊員ではさまざまな制約があり、動けない。
A:私は、たまたま、日本での会社を退職してネパールに来た身で、帰ってからのあてがあるわけではない。
何かできないだろうかと考えた結果、自分でネパール物産を扱う会社を設立することにしました。
工業製品の少ないネパールにとって、民芸品はネパールを知ってもらうにはとてもいいものと考えたからです。

静岡とネパール

Q:伊藤さんは、その後もブラッシュアップしていったネパール語を生かして、法廷通訳の仕事もなさっていますね。
A:ネパール語は世界的にも少数の人しか話さない言語です。
幸い、私は、語学に抵抗の少ない若かりし頃に出会い、それも仕事を通して、必要にせまられて話すチャンスが与えられたものですから、なんとかマスターできました。
語学は、若い時、必要に迫られて使っていくというのが鉄則ですね。

Q:ネパール人の静岡定住についてはどうでしょうか。
A:静岡に、ネパール語を話す人は少ないですが、静岡には仕事を求めてくるネパール人がいます。最近発生したネパール地震に関連し、静岡の進んだ地震対策を視察にくる人も増えています。
ひとくちに国際化、多文化共生社会の実現といっても、ことばも不自由な外国人が日本で生活し、仕事をしていくのは、容易なことではありません。 また外国人を受け入れる社会的環境や文化や習慣を受け入れる私たち日本人のこころの問題もあります。

Q:海洋国日本と世界の屋根ヒマラヤ山脈を持つ多民族国家ネパールは、いろんな意味で正反対の国ですね。
A: 世界が先進国の経済だけで動いているわけではありません。文化、民族の多様性を受け入れて生活しているネパール人や民芸品をみていると、私たちがこれから、受入れざるをえない縮小していく日本を深く考えさせられます。 持続性ある国、環境、生活というものはどうあるべきなのかと。

Q:伊藤さんは奥様もネパールで一緒に仕事された経験をお持ちです。
ネパールと日本・静岡県の懸け橋となるような仕事をしていて、何を強く感じますか。
A:ネパールにはエベレストをはじめとしたヒマラヤの山々があります。静岡には富士山や南アルプス山脈があります。山を通した静岡県との交流もまだ未開の分野です。
また静岡県はネパールには全くない海に囲まれ、水産業が発達しています。
その違いと共通点を考え、どうぞネパールからのお客様に日本人のいいおもてなしができるようになり、交流が進んでいくことを望んでいます。

Q:ありがとうございました。

記:編集ボランティア 池田 昌弘